title:春の十字架
write:岩男 香織
 咲き乱れる春の花々を人々は讃え、愛でる。今もサラリーマン風の男たちが花見の計画を立ててい
る。週末の天気予報では今週の土、日は全国的な快晴だ。そう言えば近所の小学校では二、三日前に
入学式が行われており、校門の左右に植えられた桜の前で何組のもの親子が記念撮影をしていた。
 線路わきの桜並木を抜け、右手の水面のおだやかな光景が視界から消えるとたちまちのうちに電車
のドアが開く。ホームに出るやいなや抜けるような青空が目に飛び込んで来る。
 川沿いの道を歩き、大学に向かう途中こう考えた。
 世間は今「春」である。春はあらゆる季節の中で最も人々から讃えられ、そしてその美に対し戴冠
される。人々はそれを当然とし、時には希望に頬を上気させてその式場に自分が居合わせていること
を誇りにさえ思う。誰も春に呪縛の念が秘められていることに気付かない。あの暖かみのある外見に
完全にだまされているのだ! くそったれ!
 川岸の菜の花が風で揺らめいている。化粧品店のウインドーのポスターには端正な顔立ちのモデル
がなまめかしく口を半開きにしている。そして横には製品名と「春の新色全八色」という文字。ブテ
ィックのショーウインドーには若草色のスーツが飾ってある。如何にも春らしき色である。花屋の前
に並べられているチューリップ、パンジー、マーガレット……。
 
 男ト女ガ図書館ノ中ヲ並ンデ歩イテイル。
 男ハ二十一。中肉中背。マッスグナ眉ト意志の強そうな目許ガ印象的ダ。女ハ男ニ対シテ誰ガ見テ
モ理解ルヨウナ恋情ノコモッタ眼差シト笑顔ヲ向ケテイル。女ハ今風ノめいくト毛先ノしゃぎーガ、
イカニモ「おしゃれ」ナ感ジデ第三者ニ好感ヲ抱カセル。
 ……パンジーの紫。マーガレットの白。

 二つがわたしの眼前を時計回りに、反時計回りに回転し、ちかちかする。そして視界を覆うくらい
に花辨が大きく迫る。それは花にとまり羽を広げた蝶のようだ。

 花ヲ踏ミテハ呪ウ春ノ十字架。
 愛ノタメニ神ニ祈ルモノハ精神的向上心ノナキモノデアル。精神的慕情ナンゾ無意味デアル。心ヲ
欲スルモノハ肉欲ニ訴エヨ。
 一組ノ男女ヲ見詰メテイル遠野美咲ハ軽イ眩暈ヲ感ジナガラモ棚ノ本ヲ探シ続ケル。
 男――誠一――ハ美咲ニ気付キ声ヲカケル。誠一ト美咲、ソシテ誠一ノ隣ニイル女――京子――ハ
同ジぜみニ所属スル大学三回生デアル。
 軽イ挨拶ガ交ワサレタワイノナイ雑談ガ続ク。文学概論ノ授業ノ出欠ガドウトカ、れぽーとノ締切
ガイツイツダトカ、本当ニタワイノナイコトデアル。美咲ハ京子ノ顔ヲ盗ミ見ル。スルト先ホドマデ
笑ミヲ浮カベテイタニモカカワラズ、京子ノ口元ガワズカニ歪ミ、瞳ガ冷タク光ッタ。ソレハ軽蔑ノ
念デハナイノカ。シカシ美咲ハソレヲ認識シテイナイ。わたしハソノ三人ノ様子ニ何カガ崩壊スル前
兆ヲ感ジル。
 大学まで十分ほどの道を歩きながら、短編小説の筋を考えてみる。 「遠野美咲」 彼女を主人公
にして水晶のように澄んでいて、それでいて次第に猜疑と嫉妬に心身を悶えさせていく話を書くとい
いのではなかろうか。 ああ、けれどもこの小説は遅々として、一向にはかどらず、己に対する焦燥
感と自己嫌悪のみが募っていくのみである。一体どうすればいいものか。
 そんな心持とは対照的に川はゆるゆる流れる。水流の端が石に、土に、コンクリートにぶつかりし
ぶきが上がる。光が、水が、空気が、一時だけ結合して極めて特殊な化合物を生み出すがそれを筆で
表現するすべをわたしは知らない。
 退屈な毎日。流されるだけの日々。周りは就職活動に、あるいは教育実習の準備に齷齪している。
けれどもわたしは何もしていない。「いらっしゃいませー」「八番テーブル、コーヒー、ワンです」
「おまたせしました」「申し訳ございません」「ありがとうございました」といった感情がなくとも
すらすら口から流れ出す言葉。張り付いてはがれない笑顔。適当にやって、適当に答えて、適当に笑
って。
 結局この日は大学に行ったものの、何の講義も受けずに、夕方からバイトに行った。大学はレジャ
ーランド、大学はモラトリアムのためのもの。私の人生は何もない。何にもなれない。多分何処かで
働いて、そのあと何年かしたら、そんなに好きでもない人と適当に結婚して、年をとるだろう。
 
 京子ハ誠一ノ友人ト付キ合ッテイタガ、一カ月ホド前決別シタ。カネテヨリ京子カラ相談ヲ受ケテ
イタ誠一ハ、涙デ潤ンダ京子ノ大キナ瞳ヲ見テ心ヲ動カサレル。ダガ、ソレ以上ニ、彼ガ心ヲ動カシ
タノハ、京子ノウナジヤ彼女ノ清楚サノ中ニアル、人工的ナ、ナマメカシサヲ持ツ胸モトヤ、男ヲ蠱
惑スルヨウナ、ツヤヤカナ口唇デハナカッタカ。
 京子ハソット誠一ニ抱キスガッタ。ソノ様子ハ、イカニモ、サミシサニ耐エ切キレナイトイッタタ
グイノ動作デアッタガ、ソノ裏ニハ周到ニ用意サレタ策略ガアッタ。
 誠一ハ、ムラムラシタ感情ヲ圧シ殺シナガラ京子ノ髪ヲナデツツ、「君子」ノヨウニ京子ヲ諭シ
タ。「君子」トイウノハ、カナリ大袈裟ナ表現デハアルガ、「姦淫する勿れ」トイウ宗教ヲ信仰スル
誠一ニハ、コノ表現ガ最大ノあいろにいヲ発揮シテオルノデ、わたしニハ最モイイヨウニ思ウ。京子
ハソノ様子ヲ頼モシイサマニトラエル。誠一ガ京子ノ手ヲ取ッタノニハ恋情ト同ジクライノ一人暮シ
ノサミシサガアッタ。
 誠一ニスレバ孤独ニモ似タモノヲ紛ラワスニハ、何モ京子デナクトモヨカッタ。彼ハ美咲ガ彼ニ対
シテ抱ク慕情ノ念ヲ認識シテイタ。ガ美咲ハ一重瞼デアルコトヤ、人見知リガ激シク緊張スルト吃ッ
テ、ウマクシャベレナイコトニ卑屈ニナッテイタ。誠一ニハソレガ煩ワシカッタ。又、美咲ガ彼ヲ見
詰メルサイ、ソノ瞳ニコメラレタ「私ヲ見テ、私ダケヲ見テ」トイッタ一方的ナ感情ガ欝陶シカッ
タ。
 カクシテ誠一、京子ノ二人ハ付キ合イ始メタ。ダガ、美咲ハソレヲ知ラナイ。二人ガ「仲良ク」歩
イテイテモ、美咲ノ眼ニハ友人同士ノタワイモナイ付キ合イトシカ映ッテイナイ。美咲ノ思考回路ニ
ハ「猜疑」トイウモノガナイノダロウカ。わたしハ美咲ニ教エコミタイ。モット疑ウコトヲ知レ、
ト。一人暮同士ノ若イ男女ガ接近スルコトノ意味ヲ美咲ハ知ラナイノダロウカ。
 美咲ハ誠一ニ慕情ヲ抱イテイタガ、誰カラモ好カレル京子ニ必要以上ノこんぷれっくすヲ感ジテイ
ル。美咲ハ、京子ガ自分ノ誠一ニ対スル心情ヲ、美咲ノ素振カラ知ッテイルカラトイッテ(ソレハ美
咲ノ勝手ナ思イ込ミニ過ギナカッタ)、安心シキッテイル。偉大ナル愚物デアル。
 アル日、京子カラノ電話ガ鳴ル。電話トハ実ニ偉大ナ文明ノ利器デアル。顔ヲ悟ラレナイカラ、ド
ンナ大胆ナコトモヤッテノケルコトガ出来ル。京子ノ告白モ、或ル意味デ大胆ナモノデアル。何故ナ

「私、彼ト付キ合ッテルノ」
トイウ一言ハ策略デ友人ノ想イ人ヲ略奪シタコトヲ告白スルモノダカラ。
 コノ一言デ美咲ハはっトスル。ヨウヤク張リメグラサレタ伏線ニ気付キ「あっ」ト声ヲアゲル。シ
カシ、モウ遅イ。
 京子カラ誠一ノコトヲ知ッタ美咲ハ慕情ニツイテ考イテイル。コノ「慕情」トイウ語ハ、愚物ナ美
咲ニ相応シク、古メカシイモノデハアルガ。
 ……一般ニ恋トハ心ノ中デ何カガ激シク蠱クモノダトサレテイルノデハナイカ。美咲ハ彼女ガ抱ク
恋愛概念ト己ノソレトヲ比較スル。美咲ノ心ハ自分デモ驚ククライ静カデ、サザ波一ツダニ立ッテイ
ナイ。ソレハ春ノ午後ニ遠クノ山ノ霞ヲナガメル心持ニ似テイタ。対象ハ判然トセズ、何処マデモ遥
カデアッタ。
 ソノ晩遅クニ、美咲ハ一人、街ニ出テ、しょっとばーデかくてるヲ、がぶ飲ミシタ。かるあみる
く、そるてぃどっく、てきーらさんらいず、まるがりーた、じんとにっく、かかおふぃず……。時折
ソンナ美咲ヲ他ノ客タチガ好奇ト奇怪ナ眼差デ見テ、ヒソヒソト何ヤラ言ッテイタガ、美咲ハ顧ミ
ズ、千鳥足デ店ヲ出ル。
 
 雨ノ中美咲ハ桜ノ木ヲ見詰メル。
 京子ノ勝チ誇ッタ表情ガ浮カブ。ソシテ次ノヨウニ思ウ。
 ……彼女ハ私ノ慕情ヲ知ッテイタニモカカワラズ己ノ寂寥感ヲ紛ラワスタメニ彼ニ媚ヲウッタ。ソ
シテホンノ一カ月マエマデ他ノ男ニ囁ヤイテイタノト同ジソレヲ彼ニ囁ヤイテイル。二人ハ彼ノ下宿
部屋デ肌ヲ重ネ、快楽ニ耽リ、身悶エスルダロウ。互イノ手ヲ握リ喘ギナガラ「愛シテイル、愛シテ
イル」ト何度トナク耳打スルダロウ。
 美咲ハ口唇ヲ囓ミ、ヤオラ道路工事中ト書カカレタ看板ノ元ヘふらふらト歩ミヨルト、右足デ思イ
ッキリ蹴ットバシタ。ばああんトイウ音ト共ニ看板ハ水タマリニ倒レ、泥水ガシブキトナッテ空ニ散
リ、美咲ノ靴ノひーるハヘシ折レタ。
 畏レルモノハ愚物デアル。心ノ凍テツキカラクル恐怖ヤ、訳ノ理解ヌ焦燥感ニ躰中ガ腐蝕サレル幻
影ニオノノククライナラ、何故絵巻物ヲ展開シテイク如ク、己ノ内ナルモノヲコトバデ表出シナカッ
タノデアロウカ。
 恋ヲ畏レ、蛇ノ如ク己ノ内ニトグロヲ捲イテイクモノハ愚物デアル。論理展開ノミシカ行ワズ、躰
ヲ決シテ動カサヌ偉大ナル蛇ノ頭脳ノ持主ハ、幻影シカ産出セヌ。恋ノ勝者ハ常ニ「アナタノ心ガ理
解ル」ト、イトモタヤスク言ッテノケ、相手ヲ抱ク。嫌悪ヲ感ズレバ決別シ、寂寥感ヲ紛ラワスタメ
ニ肌ヲ重ネル。
 美咲ハ濡レルノモイトワズ依然トシテ雨ノ中ニイル。桜ハ、タシカニ美シカッタガソノ裏ニハ崇高
ナモノヲタメライモナク踏ミニジル傲慢サトイヤラシサガアッタ。美咲ハ桜ノ中ニ京子ノアノ眼差ヲ
重ネ合ワセル。桜ノ枝々ガ交差スル様子ニ、花辨ノ乱舞ニ男女ノ性交ヲ想起シ嫉妬ニ身ヲヨジラセタ
トシテモ、ソレハ愛ナキ嫉妬デシカアリエナイ。
 ソノノチ、美咲ニ声ヲカケタさらりーまん風ノ青年ハ美咲ノ能面ノヨウナ表情ニ魅力ヲ感ジ美咲ヲ
クドク。美咲ハ微笑シ申シ出ヲ受諾スル。ソノ夜ノ二人ノ行方ハ誰モ知ラナイ。タダ春ノ季節ガメグ
ルタビニ一筋ノ悔恨ガ胸ニヨギリ、呪詛ノコトバヲ吐キ続ケルノハタシカデアル。
 賢明ナ諸氏ハ、美咲ノ卑屈サガ恋愛ニオイテ、如何ニ利己的カツ偽善的デアルカ、オ気付デアロ
ウ。シカシ。シカシわたしハ敢エテ何ノ弁明モシナイ。わたしハわたしノ見タママヲココニ記ス。ヒ
トマズココデ筆ヲ置クガソノ後ノ美咲ニツイテわたしハ何モ知ラナイシ、ソシテ記ス価値ナド全クナ
イ。
 
 大学に着き、二限の文学概論を自主休講して図書館で書いた文章を読んでみた。くだらない、三文
小説にもなりはしない。この小説は完全な失敗である、いや。それは初めからわかりきっていた。あ
の一語を入れたばっかりに全てが崩れたのだ。
 「春の十字架」
 かつてわたしの内にも光り輝く春と称することが出来る人生の場面があった。しかし、その春はわ
たし以外の第三者の存在によって、脆くも崩れてしまった。策略と中傷。世の中には十字架に人生の
救いを見出す人がいるらしいが、その十字架こそは、彼らの救い主の墓標ではなかったか。光の中で
厳かに輝く十字架。だが、その下には今にも朽ち果てようとする白骨が泥にまみれて埋まっている。
交錯する明暗。どす黒い光が、一瞬、わたしを貫いて、いまいましい記憶の画像が何枚も何枚も迫っ
てくる。
 何故美咲を安易に動かし、ふらふらと見知らぬ男についていかせたのか。せっかくここまで、美咲
を緻密に造形してきたつもりだったのに、みんな崩れてしまった。
 「春の十字架」
 この一言こそがわたしの人生の中の春を失わせしめた人生に対する唯一の復讐手段だった。だが、
それもわたしの矮小さと拙さが原因で、みんな失敗に終わってしまった。
 授業開始のチャイムが鳴る。くしゃくしゃに破ったルーズリーフを投げ捨て図書館を出て、講義室
に向かう。途中仲むつましげに歩く男女や、リクルートスーツに身を包んだ女子の集団、携帯片手に
歩く男にすれちがう。彼らを見て、就職とも進学とも何の将来の目的も持たず週三回喫茶店のバイト
に行き「もの」を書いている自分にぼんやりとした不安を感じるわたし。人は時折「お気楽」とかい
ろいろ言うけれども、それは人に言われることだろうか。時折ブチッと来て、殴りたくなる。けれど
もだからといって、この現実に判然とした見通しがつくわけでもない。実際にぼんやりとしているも
の、わたしは。烟草を出し、火をつけながら醜く口元を歪ませる。
 季節はいつの間にか、春から夏へと変わっていた。内定をもらった友人たちにわたしはおめでとう
と言いつツも、家に帰るとその言葉の軽薄さと、相手の目を見てそう言えない自分に卑怯と軽薄を感
じる。鏡で化粧を落としながら、口元が醜くゆがんでいることに気付く。
 そんなことを考えながら、ゼミに出席しようと、講義室への近道を横切ろうとした。そうするには
文学部の裏にある小さな庭(それは庭というにはあまりにも寂れている。咲いているのがしだれ桜の
みで、あとは気持程度の芝生がある)を抜けるのが一番である。そこに足を踏みいれたがやおら飛び
込んで来た光景に急いで後戻りをする。
 チャイムが鳴って、十分ほどして、講義室に着くとゼミの教授が出席を取っている。席に着くと窓
の外に目をやった。今朝見たパンジーの花辨がまた眼前に迫ってくる。その中で男は女の髪をなで、
女は男にすがり、背中のシャツをキュッと握り締める幻影。
 恋情や執心による苦悶をわたしは嘲り笑った。けれども、己の視界が崩壊し、混沌とした中にいる
自己認識をまざまざと見せつけられた今となっては、頭を抱え込み、数字を数えて「心」を落ち着か
せる以外なす術もない。
(了)
初出:1997年「風花DX」第2号
改訂:2001年7月
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