新月。
それは何もない夜。星明りさえない、暗闇に閉ざされた沈黙の時間。
ざっ
その暗闇の中をかけていく影。光はないと言っても、わずかな光をも弾いてしまうそれ。
夜闇の中、衣をひきずり、かけていく。しゃりしゃりと、髪飾りがこすれあう音。荒い息遣い。闇に紛れて見えない白塗りの顔は、光の下に出たとき、どんなに人を驚かすことでろうか。普段のそれとは思えない、必死の形相。
「・・・どうしたの?」
闇に響いたのは、幼い声。
聞いただけでは男か女か、さっぱり分からない甘い声。
その声を聞いた途端、影はびくりと立ち止まった。
「恐がらなくていいよ?」
突然気配もなく響いた声を、どうして恐がるなというのか。
「ああ、そうか。そう言っても無理かもね」
至って呑気な口調で幼い声は言った。
「・・・・アンタは・・・?」
影がやっと口を開いた。凛と透き通る強い声音。
甘い声の主は、一体何処にいるのか分からない。姿も見えず、気配もない。
「答えや」
影は語気を強くして言った。
不審感を隠そうともしない。それだけで気の強い人間だと知れる。
返事はない。
そのことに苛立ち、影がまた口を開こうとした、その時。
澄んだ高い音が夜陰に響いた。
すっと、闇から姿を現す一人の少年。いや、それは本当に少年か。
垂衣のついた笠をかぶり、顔は見えない。ただ、覗く笹舟型の唇だけが異様に赤い。
「あなたは、病んでますね。誰も信じられなくなっている」
「大きなお世話や」
「大丈夫ですよ、ココにはあなたと私しかいない」
「・・・・・・・」
穏やかな声音で言われ、影はふと口をつぐんだ。
しばらくの沈黙の後、また口を開く。
「・・・もう、疲れたわ」
「どうして?」
「アホな男の相手なんかしてられへん」
髪飾りを揺らして、彼女は座り込んだ。闇の中の、疲れた顔。
「客の相手は嫌ですか?」
「そら楽しいことあらへん、無理やり売られたわけやしな」
「・・・楽にしてあげましょうか・・・・?」
ふわり、と漂う甘い香。
風が、吹いた。
「・・してくれるん?」
「あなたがそれでいいと言うのなら」
彼女は『是』と言った。それでいい、と。
このまま嫌なもの達を相手し続けるだけだというのなら、それで構わない、と。
「・・・・許さないよ」
紅い女のそばで、小さく喉をならし、その人は呟いた。
それはまた別の夜。
あの出来事があった数日後。空を見上げれば、上弦の月。
夜も深まった遊女長屋。いつもどおり溢れる喧騒の一角、部屋の隅で空を見上げる一人の遊女。
「今夜は月が綺麗で・・・」
彼女の口からこぼれ出る、透き通った甘い声。
「・・・・思い出深いものにしたいんや・・なぁ・・旦那はん・・・?」
にやりと唇がつりあがる。
その瞬間、真紅が舞った。
喧騒が惨状に変わり、静かになった頃。彼女は同じ場所に立っていた。艶やかな着物も、白く美しい顔貌も緋色に染めて。
その顔は無表情。冷たく見下ろす先は庭にたった一人の青年。
「・・いつも黙って見てるんだね、あなたはただの通りすがりだって言うの?」
甘い声に混じった皮肉の色。
青年は何も言わない、ただ、じっと彼女を見上げるだけ。
「あのときも、自分は何もせず、何も言わず、ただ家にこもっていただけ」
「・・・・」
「どうしてココにいるのかって顔してるね?」
くすくす、と冷たい笑いをこぼしながら、彼女は地へ降りた。
「月の生活はつまらなくて」
「一体、何が目的なんだ?」
青年が口を開く。その質問に、彼女は銀色の瞳を細めた。
「復讐」
はっと青年が息を飲む。
口元に微笑を貼り付けたまま、彼女は続けた。
「地球の人間って嫌い。特に女をないがしろにするような奴は、ね」
髪飾りを取り、地面に叩きつける。長い黒髪が風に流れ、怪しく靡いた。
「八月十五夜。この私が去った日に、全てが終わるよ。頑張って止めてみる?オトノサマ」
あははははは、と高らかな笑いを残して彼女は姿を消した。
後に残るは、甘い香と小さな笛の音。
「・・・カグヤ・・・」
呟いた青年は、空を見上げる。
あるのは星影と、上弦の月。
「逢ふこともなみだに浮かぶわが身には 死なぬ薬もなににかはせむ」
それは過去に当てた手紙。
月を見上げて呟くその言葉に一体どんな思いが込められているのか。
今宵は上弦の月。
月が満ちる、八月十五夜に程近い夜。
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