彼女の部屋には、空の鳥籠があった。


「あたしはね、他にする事がないから生きてるの」

 繁華街の片隅で、執着のない瞳を空に向けた彼女と出会って一年。
 初めて通されたその部屋は、彼女という人間を象徴するように無機質なものだった。
 コンクリート剥き出しの壁、アルミ製の冷たい調度品。分厚い茶色のカーテンを開けた
窓辺に、それはあった。
 底や周囲に散らばった華やかな色の羽根が、ただの置物ではない事を物語っている。
 固いベッドに腰を下ろして彼女は虚ろな笑みを浮かべる。

「逃げちゃったの」


 すべてを捧げた男に捨てられた彼女。
 合格確実と言われた国立大学に二浪した俺。
 自暴自棄の中、出会ってから一年。
 友人というにも、恋人というにも希薄すぎた彼女。
 細い糸で絡み合うような焦れた関係、それは男を信じない彼女と確信を疑う俺にとって、気楽なものだったかもしれない。
 初めて部屋に誘われて、良くも悪くもこの関係に肩書がつくと思っていた…が。

「あたし達、どうなるのかな?」

 誘惑と受け取るには虚ろな彼女の言葉。
 俺は、ほんのわずかに抱いた希望を捨てた。


 …執着がないのは、俺だって同じなんだ。


 日毎、干からびていく羽根。
 風に飛ばされ、くすんだ部屋を鮮やかに彩る。


 籠の主はこの部屋に浮き上がるくらい映えたのだろうと、ふと思った。
 それから数カ月。
 俺と彼女の関係は変わらない。



「どうしてそのままにしてるんだ?」

 無防備にベッドに寝そべった彼女は、一瞬俺の言葉の意味が分からなかったらしい。
 その肌に触れようともしない俺の脇に起き上がり、籠を見やる。
 その瞳が、初めていとおしく感じた。

「…帰ってくるかもしれないから」

 予想外の答えだった。
 窓の外へと向けられた、開いたままの格子扉に俺は気付いていなかった。

「ここがあの子のうちだから」


 不意に彼女を傷つけたくなって、俺は残酷な言葉で問い掛けた。

「帰って来ないかもしれないのに?」

 彼女を捨てた男のように。


 なのに、男に捨てられた彼女は、確かな笑顔で呟いた。

「帰るところがあると、帰る気がなくても安心でしょう?」


 籠から逃げた鳥は、何故こうまでも彼女の虚ろな心を支えているのだろう。
 彼女を捨てた男よりも確かに、残酷に。


 ちりちりと、嫉妬のように胸が傷んだ。
 愛していないはずなのに。


 地方の私立大学の合格通知が届いたのは、それから五日後の事だった。



 滑り止めの合格通知が届いたその日。
 俺は目指し続けた国立大を断念した。


 その日も、彼女はいつものように繁華街の片隅に立っていた。
 いつものように、空を見上げていた。

 何事にも執着を感じさせないその瞳は、逃げた鳥を探していたのだろうか。


「志望校、受かったんだ」

 稚拙な見栄。
 何を言っても無感動な彼女に、何故そんな無駄を働いたのか。
 ちりちりと傷む胸。
 …罪悪感?…違う…。


「そう」

 いつもの抑揚のない声で、彼女は確かな笑顔を見せた。
 嬉しそうな、寂しそうな笑顔を見せた。

「先に乗り越えたんだね、あたしより」


 それが、別れの言葉だと、何故か俺は感じていた。


「…乗り越えてないよ」

 俺は、逃げたんだ。


 消え入りそうなこの関係は、彼女の心にどう映っていたのだろうか。
 俺の心に、どう映っていたのだろうか。


 それを知りたくて、俺は彼女の誘いを受け入れた。



 色のない部屋に散らばる羽根。
 枯れきったそれはもう、以前の鮮やかさを失っていた。


「こんなもの、何故そのままにしてるんだ?」

 逃げた鳥の足跡を。
 苦い過去の傷跡を。


 彼女は羽根を拾い集める。

「…あの子はね、空を飛びたかったの」

 部屋と同化した色を掻き集めて、呟く。


「ただ籠の中を跳び回るんじゃなくて、こう、羽を広げて、力一杯飛んでみたかったんだ
よ。だって…あの子はいつも空を見上げていたから」

 格子の向こうの空を見上げる鳥と、ビルの谷間で空を見上げる彼女が、重なった。


「鳥っていいね。どこへだって、どこからだって、飛んでいける…」

 彼女は微笑んで、両手一杯の羽根を屑籠に落とした。


「私も、飛びたい」

 以前とは違う、確かな誘惑。
 彼女も、逃げていた。


「…違うだろ。俺たちは、そんなんじゃない」


 互いの傷を嘗め合うように唇を重ねて。
 俺は、その場を後にした。



 そして、俺は駅のホームに立っている。
 列車が来るまであと十分。


 彼女の誘惑を拒んだのは、彼女を捨てたくなかったから。
 彼女の心を壊した男のように。
 加護を捨て、籠の外に飛び出した鳥のように。

 崩れ落ちる心の傷跡と、崩れそうな心の支え。
 俺は、そのどちらにもなりたくなかった。


 鳥が自由だなんて、誰が決めたのだろう。
 彼らは空を舞いながら、地上を見下ろし願ったかもしれない。
 地面を蹴り上げ走り回る足が欲しいと。
 誰かを固く抱き留める腕が欲しいと。


 列車がホームに滑り込む。
 荷物を持ち直し、俺は呟いた。

「好きだったよ」


 ゆっくりと、列車が動き出す。


 車窓に広がる繁華街。
 その片隅に、彼女は立っていた。


 彼女の潤んだ瞳は、空ではなく、俺の乗る列車を見ていた。


 あっと言う間に遠ざかる姿。
 彼女にはきっと俺が見えなかったに違いない。


 その確かな笑顔に笑い返した俺の顔が。
−END−
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